昭和46年02月18日 月次祭
限りある人生、限られた人生をそこから限りのないおかげ、あの世この世を通してまでも頂けれるおかげ。いわゆる限りのないおかげを頂かせてもらうそういう力というか、そういう働きになる元を、頂かせて頂くというのが私共のいきがい。信心させて頂くものの、生き甲斐でなからなければならんと思う。これは私はよし百までいきられたと致してましても、百年間という限られたもの。その限られた年月とか年限、生涯を持って限りなく、いわゆる極まりのないおかげを頂いていかなければならない。
しかもあの世この世を通して、頂きぬいていけれる幸せ。そういう幸せの元になるもの。そういうおかげの頂けれる元をいよいよ確固たるものにしていこうと言う所にね、信心させて頂くものの願いの焦点と。そこんところを一つ練らせて頂いてお互い一つ信心の稽古をさせて頂かなければならない。ただ人生の中に様々な浮き、艱難いわゆる難儀苦労というのがございます。その難儀苦労というものから解放されたり、その時その時の難儀な困ったことからおかげを頂いていきたい。
そういういわゆるおかげを御利益と言う。そういう御利益だけが、なければ(?)頂いたところで願った事だけであるね。ですからね、願わんでも頼まんでも、しかも限りなく無尽蔵に、おかげの頂いていけれる世界を顕現していくと。信心して氏子おかげを受けてくれよと仰るそういうおかげのことだと思うのですよね。そこでならそういうおかげを頂いて行くことが信心だと。そこでこれは私自身おかげを受けておることを日々皆さんに聞いて頂くわけなのである。
それは私自身を一つのおかげの手本として皆さんに私の受けておるおかげを見てもろうて、私の話を聞いて頂くわけなのである。そういう例えばおかげをですね、ですから皆さんも受けよう頂こうという姿勢を早く作らなければならない。今日私午後の奉仕を4時の御祈念が終ってから、丁度神饌があっておりましたから、神饌室に入らせて頂きましたら、もうそれこそ、神饌物でいっぱいで中に、よりつかれんごたる。
これだけ奇麗にお三宝に盛ってね、大盛台にしておりますから、あれだけに片付いておりまけどもね、あれをばらばらに置いておりますとね、よりつき場がないごとあるですね。中にあの、今日お供えになっておりましたですね。金樽。あれは大祭か特別な時に皆さんがお供えになさるお酒なんですけれども、あの金樽のお供えをしよりなさいますから、これは誰がもってきたのち。さんち。わざわざこげなお酒ばお供えせんでよかろうごたるのに、ありゃ一とが三千五百円もする。
あれはでも二千円もする。だからもう普通で言うならここでお神酒のお供えをさせて頂くのが、あれが中身が同じ、生と生でないというだけですね。同じ菊正宗の超特級のお神酒なんです。まあここに金樽ちいうたらそげんして沢山ある事ですし、わざわざ金樽にしなさらんでも、大祭でも(?)それが先生とにかくもう、とにかくおかげを頂いて、どうか、せずにはおられないあれは、久留米あたりや大分あたりにはないそうです。やはり福岡あたりに行かなければならない。
わざわざ福岡へんにまでも探しにいって、どうでもこうでもやはりあれでなからなければならんというて、お供えをなさったのですよというて、とにかくおかげを受けて止むに止まれんどうにも出来ないという人達がお供えをする。今日のお供えの中にお酒10本お供えされている人がある。お酒を一本お供えをすればそれで神様はちゃんと受けてくださるとじゃから。
有難き勿体無き、恐れ多きが、一番好いてござるというても10本も、一遍にもったっちゃだれも飲みはせんのに、10本もお供えをしてから、先日もねある信徒の会を持って幹部会があった、それにこっから秋永先生が出ておる。たまたま合楽でおかげを頂いておる話が中心になって、秋永さんあなたのところはお酒が500本もストックしとるという話じゃがほんなこつですか。ち言うさぁ私は知らんばの信者じゃけんそげな酒が二百本あろが千本あろうがどげな風な、見た事ないけん知らんけんどね。
そればってんから、月次祭たんびに例えば40本づつお供えきたっちゃ一月で四、四十六、百六十本。二三ヶ月くらいすりゃ五百本くらいはしようのち言うてから、ほうちたまがってから、そうですよね、今日なんかも五十本から。一月すりゃあんた二百本。二月すりゃやはり四百本。五百本すぐなると言う事になるわけです。もう無尽蔵かぎりがないのですよ。だからそれはどげな風にして処理しよなさるですかち、そう言う事は信者が知った事ですかち私言うたち。
だから酒の心配までして頂きよるごたる。まあ実際は腐らした様な事はありませんけれどもね。まあお供え物が沢山あるというて、酒は腐ると言うて飲みよんなさる人があるかもしれません。決して心配は要りませんけれどもね、これは酒の事だけではありませんけれどもね、一時が万事にいわば限りがないおかげなのです。ですからこういうおかげを頂いておるから、私自身がそういうおかげを頂いていく原動力となるもの。そのもと。あそこの先生はえらいお供え物をさせ上手だという評判らしい。
何か(?)知りませんね。けれどもね全てが尽きる事のない、しかも嫌が上に無尽蔵に限りなく、例えばこれは形の上のことだけです、けれどもそういう例えばおかげの頂けれる信心。どうぞ明日は月次祭ですからお神酒の一本、お酒位はお供えを集めて下さいというて願わんでもいい。だから私皆さんにねここにお参りをされてから、そのまあいうなら、ここの私の信心の手本にして下さるならば、こういう例えばおかげだけを形だけのおかげを、みらずにそのおかげの元、秋永先生がみんなにいわれた。
あなた方は合楽のお酒が何百本あると言った様な事を話にしておられるがそういうおかげの頂けれる元を一遍探しなさらんですかちいうてから申しましたと言うておられました。だからその元になるところのもの。私はこの二十年間こっち月次祭をさせて頂いて一遍でもお神酒がお供えにならなかったと言う事がなかった。ある場合はにごり酒、素人がつくった濁り酒。という時もあった。焼酎の時もあった。まあ一時は二級酒ばっかりの時もあった。ところがもうこの頃はもう、二級酒は珍しか。
はあ一級酒がきとるちいうてからたまがるくらい。と言う様にねおかげを頂いておる。もうそれこそお供えをさせて頂くでももう超特級というても例えば、同じ酒でも金の樽でなからにゃならん、というてそれを捜し求めてお供えをなさる方達が段々おかげを頂いてきた。合楽の信者さんは風流だというような事じゃない。やはりおかげを受けて止むに止まれんものがその様な事になってくる。そういう止むに止まれんものにならせられるものが合楽にあるのだ。
ですからここで皆さんもやはりそういうおかげをいただかなければまた頂いてもらわなければならんと言う事になります。本当にまあ、今私は日本国中でお月次祭にはお酒が50本お供えがある、しかも超特級ばっかりですちいうたっちゃ、もう他所に行たっちゃ本当にされない。といういわゆる真実性を欠く程しのね、おかげがしかも限りなく頂けておると言う事のね、秋永先生がその元を尋ねて見なさらんかとこうね。ですからこれは私の信心を見てもらう以外ないわけです。
そこでそんなら私がどう言う様な心の状態で神様に向かっておるか、どういう姿勢を持って神様にお縋りさせて頂いておるかと言う事なんです。もうこれだけは私はね、恐らく死ぬまで思い続ける事だろうと思う。いわゆる限りのない人生に置いてです、限りないおかげを頂かせて頂くのは限りなく私共がね、神様に近付かせてもらおうという心。限りなく改まらせてもらおう、限りなく磨かせてもらおう、限りなく麗しく豊かにならせて頂こうと言うこの気持ちだけはこれは私が死ぬまで願い思い。
しかもそれに専念し続ける事であろうと言う事なんです。もうこの位頂いたけんよかくさ、この位で止めといてよかち言う事はない。と言う事は限りなく神様に接近しよう、和賀心が神に向かうのを信心というのじゃ、というところから始まって、わが心が神に向かうところの姿勢をとらせてもろうて、それを一歩づつでもそちらに近付いていこうというのである。しかもその心の状態おかげの受け物であるところの心というものをです、いよいよ今日よりも明日。
もっと偉大なものにしていこう、大きくしていこうという願いなのである。信心はねもうそれ以外にはないのですよ。同じ楽器でも小さいこれくらいばっかりのハーモニカというのがある。かというともう本当、こげん大きなグランドピアノというのがあります。私共の心の調子、有り難いなあというてももう限りがないのです。私が有り難いと思う人、人のこの人もあの人も有り難いと思うその内容が違う。いわば大きさが違う。その有り難い思いをいよいよ大きく募らせて頂こうという事。
そのためには私共が限りない、そんならそういう風にいつも神様に向かうて神様に向かって、このように無尽蔵に限りなくおかげの頂けれる先生だからもう風邪もひきなさらんじゃろうか、という事はない。今私風邪を引いておる。風邪も引きゃあ人間としての様々な暑い寒いも感じる。そこは誰とでも同じなんだ。だからそこをどう神様に向けていくかが違うだけなんだ。
昨日久留米の佐田さんがお届けをしておられました。今あちらがお導きになった、滝本さんて息子さんの病気の為に夫婦で一生懸命にお参りになります。今晩も奥さんが参っておられるはずです。そのご主人と言う方は神様のかの字も言うた事のない人。お参りをするというても神様仏様とある筈がないじゃないか。というてそのまあいうなならば、逃げ隠れする様にして参らなければ、出来ない程しの事であったけれども、その息子さんの病気のいうならば、おかげで合楽にお参りされるようになった。
夫婦で移り変わりお参りになるようになった。そしてこの頃はね、信心が段々分かってみえられて、分かっておるというか、有難くなってきてここ二、三日毎朝お参りをさせて頂いて昨日おとといだったか、雨が降りよった梅溝町から佐田さんのところというたら、随分、久留米の端から端ですから、その小雨が降る中をです、それこそ、濡れながら、本当に有り難うして、有り難うして佐田さんところ、に車でこうやっていきよるけれどももし車がなかったら合楽まででも。
このままこの有り難い思いで、歩いて行こかと思うくらい有り難かった。ここにつかせて頂いて御祈念させて、そりゃ難儀なことは今に、息子さんの病気のことを思うただけでも、そりゃ難儀な事なんだけれども、神様の前に平伏して拝ませて頂いておると、佐田さん私の平伏しておる畳が濡れるくらいにアリガタ涙がこぼれるというて話された。有り難い。信心のしの字も神様のかの字も言わなかった人が、いやその参るという家内に対して、それを止め立てしておられたご主人が、お参りをさせて頂いて。
いわゆる子供の難儀と言うそのことからそのことを通して信心が分かられる。少しずつ分からせて頂きよる。この寒いとにこの早いとに、この雨の中にと普通ならば思うとが当たり前なのだけれども、その雨の中にこの有り難いものが湧いてくるどこから湧いてくるのであろうかと。しかもこのままなら合楽まで、夜の道を歩かせてもらってもね、さほどに苦痛ではなかろう、いや却って有り難いだろうとさえ思えるようになった。だから修行と言う事は有り難い。そんなに有難くなるものなんだ。
そして最近はね神様から色々とお知らせを頂くようになった。人間の一心一念というものはありがたい。先日も御祈念さして頂かれていたら目の前に赤飯がいっぱい出来あがって、片一方には白いご飯が出来ておるところを頂く。今日の大盛り台に(?)ある方がね、病気が大変おかげを頂いてまあ、心祝いの積りで赤飯をお供えになっておるのがある。赤飯と焚いて祝い賀ぶような心を神様は受けておられるのである。
その滝本さんご主人が頂かれたのというのも御心眼にね、赤飯が出来あがっておるところ、白いご飯がこう出来あがっておるところを頂かれた。そこで神様が滝本さんに何を教えようとしておられるだろうか。今は難儀があっておるところの苦しいこと難儀なこと、それをね、おかげにしてやると言う事も神様からしてみればわけないことね。これは白いご飯、普通はままになると言う事。
けれどもこの難儀なことを通して信心が分かりいよいよあり難いという心が湧いてくるようになったら、自分の心がそれこそ祝い喜ぶ心。いわゆるおかげは和賀心にありと仰るまたは、どのような中にでも和らいだ心で入って行けれるという心。賀の心は祝い喜ぶ心だというそういう、日日が祝い賀ぶような心で生活ができれるおかげの頂けれるそういう赤飯的ままになるおかげとどちらがよいかとこう、言うてござるね。
この前聞いた話があります。小倉の初代がある難儀な問題を神様に一生懸命おすがりなさっておられそしたら、桂先生の御心眼に綺麗なねぎを頂いた。野菜のね。次にはたけのこを頂かれた。桂松平、汝が今願うていることを神が聞いてやることは安いけれども、これはねぎのようなものぞと仰ったね。節もない何もいわゆる、根深のようなものぞと。それよりもこの竹の子が伸びて育って、どういう細工物にも使えれるようなおかげを頂く、さあどちらが良いかと神様が仰る。
桂先生のことですからこれは苦しい。苦しいけれどもここを通り抜かせて頂く力を頂く、徳を受けることになればいうなら、どのような事にでも神様がご用にお使いくださいましてもむせんですむだけのおかげが頂けれる、ほうを取るのがと言う事になって腹が決まった。神様竹の子を下さいというて願ったね。それこそ神様も心から喜ばれたことだろうと思う。私も同じ事があった。これは北野の教会でお話に行っておる時であった。もう教会でお話をしておるだんではないという苦しい問題を抱えておった。
お話をしたある夜私は御祈念で、ご神前で御祈念をさせて頂きよったら、御心眼にお三宝にね、大根と牛蒡のお供えを二台頂いた。そして私の心に神様が言うて下さること、さあ、これを大根をとるか牛蒡をとるか、大根は白くしておるから苦労はせんですむわけなんです。ね。けれども、大根と、まぁいうならば大した使い道というのは狭い。けれどもこの牛蒡というのは長く苦労をしておる。
長くて黒い。そうでしょう。いうなら長い修行がね、どう言う事になるかというと、牛蒡はね、お互いが日々の御そうさいにも良いだけではなくて、ご祝儀事にも無からなければ出来ん、ご仏事事にも牛蒡がなからなければ出来んというほどに広い使用範囲というものがある。そのいわば牛蒡を取るか大根をとるか私はすぐ、私の心の中に決まったこと。この苦労、この修行が牛蒡のおかげを頂けれる牛蒡の力が受けられるならばこれは牛蒡のおかげを頂かにゃんと腹が決まった。
よしどっこい、どげな難儀な問題でもその立ち向かうという勇気がもりもりと湧いてくるね。根深いといい大根といい、滝本さんが頂いておられる白いご飯、普段ままになるというそのことがままになるというだけではなくてそのことを通してです、限りのないおかげの頂けれる原動力にもなるもの、その元になるもの。それを受けていこう頂いていこう。それは限りある人生において、限りのないおかげの頂けれるもとを、しかも、今日私が言う限りのないといえばこの世あの世を通してのこと。
そういうおかげの頂けれる元をです、頂かせてもらおう。しかも同じ頂くならば、同じハーモニカでも同じ楽器でも、ハーモニカと言う様ないわばあれでも一つのリズムなるほど、あれを上手に吹けばいいものです。けれども同じ頂くならば小さいよりも大きいがよい。それこそグランドピアノのようなその楽器がしかも調子の狂うこと無く、それが奏でられるというかねそれを頂けれるおかげの方が良い。もう私はそこんところをです、いつも限りないおかげが頂けれる事の為に。
しかもより大きなおかげの頂けれることの為に精進をする。今朝のご理解の中に心は信心の定規じゃによってというみ教えがあります。それを私は今日はね心はおかげの受け物じゃによってその心の受け物というものが綺麗にならなければ大きくならなければ綺麗なおかげはまた限りないおかげは受けられないと言う事になるのだ。そこで私共の周囲からどのようなことにでも和して入っていけれる心。
例えばこれは人間関係でいうならばこの人はとても好きだけども、この人はとても虫が好かんち言う様な事だったもうおかげは半分になってしまっておる訳なんです。これはね、一つ皆さん本気で取り組まなければならない事です。自分の周囲にあれは好かんこれは好かん、あげなやつはもうものでん言いたくないと言う様なものがあるならばあなたのおかげはそんなに狭くなっておる訳なんです。けれどもねあの人もよか人、この人も仏様のような人、神様の様な人じゃという人が自分の周囲に多くなってくる。
それは周囲が神様のようになるのじゃなくて、仏様のようになるのじゃない、これ自体が仏様になるのです。だから仏様に見えてくるのです。そこの中に和して入っていけれる。もうこれは性分じゃからといわずにですね、本気で取り組んだら出来る。これは私はね一番自分でも不思議なことはね私は大体人間が、神経が小さい。しかも商売人ですからこすい。我情我欲がいっぱい。根っからの商売人ですから、もうとにかく、金儲けのことばっかりしか考えていない時代がある。
そしてもうそれこそ、今日も話したことでした、こうやってお食事させて頂いておると、自分の前だけならよかばってん、ちょっとこぼしたりすると人の前までこうやって、お酒飲む場合でもふかにゃできん。気色悪うしてこたえん。そげん神経がこまい。だからそのことが悪い事じゃないけれどもね、その事の為に人がろくそうにすると、もうそれが許す事が出来ないと言う事になってくるんです。だから神経がこまいのは良いけれども、そのような場合にあってもそれが許せれる私。大きな心になる。
四神様が仰る様にです、鯨が住むようなおかげを頂く為にはね、大海の様な信心をせよと仰る。おかげだけは鯨の様なおかげを頂きたいと願いながら、それこそ竹の筒にボウフラが湧く様な信心をするからぼうふら位のおかげしか受けられんと仰る。鯨の住む様なおかげを頂くならばまず大海の様な信心をさせて貰わなければならん。どんなにどんなものが流れこんできても平気でおれれるおかげを頂かなければならん。
あれは好かんこれは嫌だと言う様なそれだけでも自分のおかげの世界は狭くなっておる。そこで私は嫌いな人、嫌いな事柄でもそれをあり難く頂かせて頂ける、修行修練をしていかなけれね。(?)嫌いだと思うておったほどしの人がです私の為に一生懸命きたえて下さるような事にでもなってくる。私はそう言う様な小さい神経ですからね、もうその色でも好ききらいがある。私の好きな色は紫色が好きだ、明るい色が好きだ。鉛筆でも子供の時から私は赤と黄色とね。
それから紫の鉛筆というのはなかったけれども、とにかく自分が好きな色の鉛筆しか使うごとなかというほど神経がこまかった。ところがね、段々おかげを頂いてまいりましたらね、私の一番嫌いな色がかあき色でした。もうこげなげさっか色はなか。本当に好かじゃった。かあき色というのはほろほろ好かんじゃった。あの煉瓦色。ところがどうですか今その煉瓦色が一番好きになっておるんですから、ここは何を作るでもね、お書物を作るその表紙も煉瓦色ね。
本部の時の団体参拝の時のあの、煉瓦色は誰でん好かんごたる風です。あれだけたくさんの旗が立っておるばってん、煉瓦色というのはなかです、うちだけです、かあき色。ところがこっちは煉瓦色が一番好きなもんじゃけん親先生が好きな色というてから、かあき色の旗が出来た。この頃どうもまたどっかまた真似をしておる所が一軒あったね。この色。と言う様にですね、例えば嫌いなものが好きになる、しかも一番嫌いなものが一番好きになる。これは好きになることを稽古させて頂かなければならない。
これがいよいよ清められて行くと言う事、大きく豊かになっていくと言う事。そこにね、いうならば赤もならなければ青もない。まあ好きもなからなければ嫌いもない。それこそ、無色透明の色が一番良いと言う様な事に成って来た時が私は神様に近づき出したのではないかと思うですね。もう今私にはあの色はいやこの色は嫌いというものはなくなった。今だけでも。やはり稽古させて頂くと言う事は自分の心の中がです、段々豊かになり美しくなることに勤めさせて頂いておるとそう言う事になる。
だからおかげはもう、カーキ色も持って来れば色んなものが集まってくるごとなりました。かあき色は好かんというたら、神様はあれは神様にかあき色は好かんちいうたら、かあき色のものは集めなさらんごとになる。いやそのことが神様の機感に叶わんから、これが他のおかげまで頂きにくく成って来ると言う事になるのですよ。そういうおかげ、だからもう限りがない。私共はもう本当に百までも生きればもう最高だ。限られた百年なら百年の間に私は何を生きがいとして生きるか。
自分自身の心がいよいよ豊かに大きくしかも美しく何も見ても有り難い何を聞いても有り難い、どのような中にでも和の心を持って入っていけれる、どのようなことでも自分の心の中に赤飯炊いて祝い賀ぶような心が心の中に育っていくと言う事はです、楽しみに信心をさせて頂く、そこに生きがいが生まれる。そこから限りの無いおかげ、限りのない人生そこから、限りのない無尽蔵に頂けれるおかげ。それはあの世この世を通して、頂いていけれる道が開けてくる。
一つ今日を境にね皆さん、一つ本当に自分の周囲から好き嫌いはないというほどしのね、おかげを頂かせてもらうと言うことはそれだけ自分のおかげの受け物を大きくすると言う事なんだ。あらゆる機会を通してその機会を通してそのことによって磨く。それによって改まると言うことになるところから、おかげがいよいよ清らかなあり難いものになってくる。滝本さんが先ほど申しましたね。
御心眼を頂かれた赤飯と白いご飯を頂かれて、その明くる日はこうやって、御祈念をされよったら目の前に、いっぱいマッチが落ちておった。あらと拾いよったら御心眼じゃった。マッチのじくが。中の棒がね。だからいかにここにマッチがここにおちておってもマッチのじくだけではどうにも出来ん。これがなからねば。摺る方がなからなければそこに難儀と言う相手がある。好かんという相手がある。
いわゆる私共が問題にしておるその問題をそのいわばする事になってくる時にですね火が出る。そこから全ての言がいうならば、ままになってくる、水なら湯になるだろう。米ならご飯になるだろうというおかげがそこから頂けてくるんだ。今あんたが感じておるその難儀そのものをいうならば、あんたの信心の熱情、雨の中にでもお参りをさせて頂いておることが有難いなあと思える心、それはマッチのじくのようなもの。
そのマッチのじくを持ってこの難儀と刷り合わせるところから火が出る。そこから信心の光が赤々と燃え盛ってくるというおかげになってくる。そこから全てのことがおかげになってくる力になってくる。そこから限りない、おかげのいわゆる原動力がいよいよ出来てくるところのおかげが受けられるわけなんです。私がね口で言うだけではなくて、今日はいかにもこれは皆さんでなからにゃ。
他所のもんがききよると、大坪さんが自慢しよるとしかいわんです。月次祭に50本も今日はお酒がある。しかも一本が三千五百円もするといわれる、金樽。わざわざそげな事にせんでもです、しかもそれば二本も買うてこんでもです、まあ超特級の一本千五百円くらいのお酒でよかごと思うばってんそれじゃすまんち。どうでもそげんせにゃおられんというほどしのおかげを頂いておる人たちがおるからこそ、こういう月次祭になってくるのです。いやそういうおかげを頂いておる。
原動力はどこにあるかというとやっぱり心なんですね。私が助かるのじゃない、そういうおかげの働き、そういうおかげの世界が広なってくる。そこに楽しみそこに生きがいを感じさせて頂けれる信心をね、目指さなければならない。皆さんどうでもねぎではいかん大根じゃいかん、ただ白いご飯がままになりさえすればよいと言う事ではいけません。それでは私が今日言う、無尽蔵というおかげに繋がると言う事には出来ません。
どうぞ。